Strawberry shortcakes

の映画版を観た。正確に言うと観ようと試みた。30分くらい観て止めました。途中で気づいたんだよ。これは原作の漫画を超えられるわけないと。観るの止めてから漫画の方を再読。秋代さーーーーーーーーーん!!!!

Strawberry shortcakes (フィールコミックスGOLD)

Strawberry shortcakes (フィールコミックスGOLD)

3連休初日の土曜日は久々の品川道場。完膚なきまでにボッコボコにされました。俺はリズムキープしてるようでできてないんだ。最低だ。俺って。(シンジくん)でもって残りの2日は普通に仕事しております。

そうそう金曜の夜に「火垂るの墓」を観たんだけど、あれって大人になってから観ると清太の意地の張り方に違和感を覚えてしまう。あれはやっぱ悔しくても意地悪な叔母さんに頭下げるべきだったんではないだろうか。キャッチコピーの「4歳と14歳で、生きようと思った」って言葉は美しいけれど、節子が衰弱していくを目の当たりにして、清太は何を思っていたんだろう、なんて考えてたらwiki高畑勲のこんな記述があったので引用。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93
この物語はやはり”家庭”を描くことが前提だと思います。空襲で母親も死んでしまって、兄妹ふたりになった。その最小単位の家族で独立した”家庭”を営もうとする。(ふたりの生活は)成功したんじゃないかと思います。成功したにもかかわらず妹が死んでしまうというところに、この物語の悲劇性、ひいては神話性があると思うんですが。
清太と節子は”家庭生活”には成功するけれど、”社会生活”に失敗するんですね。いや、失敗するのじゃなくて、徹底して社会生活を拒否するわけです。まわりの大人たちは冷たかったかもしれない。しかし、清太の方も人との繋がりを積極的に求めるどころか、次々とその機会を捨てていきます。そして無心に”純粋の家庭”を築こうとする。そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。社会生活は煩わしいことばかり、できるなら気を許せない人づきあいは避けたい、自分だけの世界に閉じこもりたい、それが現代です。
現代の青少年が、私たちおとなが、心情的に清太をわかりやすいのは時代の方が逆転したせいなんです。もし再び時代が逆転したとしたら、果たして私たちは、いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。全体主義に押し流されないで済むのでしょうか。清太になるどころか、未亡人以上に清太を指弾することにはならないでしょうか。ぼくは恐ろしい気がします。

なるほどなー清太は「家庭」を作ろうとしてたのか。父親と母親の不在を埋めようとして失敗したんだな。「火垂るの墓」は清太が父親にも母親にもなれなかった挫折の物語なのだろうか。その辺を踏まえてもう一度観てみたいと思う。