饒舌な隙間

昨日、mixiの日記に「MUSICバトン」ってのを書いてる時に思ったんだけど、自分が好きな音楽とか惹かれる音楽ってのにはある条件があるようだ。
それは「思索の跡が見える音」だと思う。
例えば「初期衝動」って言葉があるけど、何も知らないままの状態が出す音の強さとか、その純粋さとか初期衝動に基づいて鳴らされる音楽はとても魅力的だ。実際ぼくもそういうの好きだし。コードも知らない中学生が鳴らすエレキギターの音は何物にも代えがたい尊さがあるのだろう。
でもぼくがここ2年くらい本当に心酔するように聴き続けた音楽、例えば大友良英とか杉本拓とかRadianとかウィーンの音楽家たちの音楽には、初期衝動はほぼない(ように見える)。
その音は音楽に相当精通していて、「音を出す」という行為自体に非常に自覚的な音楽といえる。初期衝動に基づいた音楽が「音を出す」それ自体が目的なのに対して、こういう音楽は「音をどう出すか」という設問がまず発音の前にある。

音を出す事ってなんだ、静寂ってなんだ、人前で演奏する事ってなんだ、音楽ってなんだ・・・・
熟練したプレイヤーが、自分自身の音楽に対してそれこそぼくには思い及ばないような真摯さで向き合い続ける思索。試行錯誤。実験。
例を挙げると、杉本拓の音源に「Live in Australia」という、隙間だらけの、演奏中に降り出した雨の音が実際に演奏している音よりも大きいという珍しいものがある。この音源の尋常でない音の少なさや、雨の音、観客の席を立つ音を聴いていると、何も起こっていないようなこの音楽の隙間の中には、とんでもない思考量が詰まっているように感じた。演奏することとは・・・作曲とは・・・静寂とは・・・・音響とは・・・・それらの問いの答えはそこにはない。その問いを受けて、今度はぼくが思索する番なのだ。